INTERVIEW

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大川
飯田伊三男さん
東伊豆町文化財保護審議委員

東伊豆町民インタビューNO.42 飯田 伊三男(いさお)さん

荒武
荒武

本日は、大川地区で区長さんを務められ、大川区の古文書研究の整理をされている飯田伊三男(いさお)さんをインタビューさせていただきます。

本日はよろしくお願いいたします。

まず、飯田さんの生い立ちヒストリーをお教えください!

生まれも育ちも大川で、仕事は中学校の数学教諭をしていました。

その後は小学校の校長や東伊豆町の教育長を務めました。

教育長の任期後に大川地区の区長の役職を経て、現在は町の文化財保護審議委員会を担っています。

大川の公民館は大川区が管理しており、館内を整理していたらこの地区の古文書が出てきました。

言い伝えで、明治時代の新聞が残っているということは聞いていましたが、見つかった資料の数はなんと3213点で、古いものは江戸時代前期の記録も残っていました。

古文書発見を通して、解読を始めたのは71歳のときです。

飯田さん
飯田さん
荒武
荒武

3000点以上の資料とは膨大な情報ですね!

きっと大川地区の皆さんが江戸時代から大切に守り継いでこられた貴重な資料だったことと思います。

飯田さんの発見された古文書には一体どのような内容が記されていたのでしょうか?

古いものだと元和年間(1615〜1623年)のものや寛永6年(1629年)の築城石採石の文書がありました。

大川の築城石を採石できる石場を幕府から預かり受けた12名の大名連名の書状があります。

築城石採石について、石工は採石担当の大名が連れて来ましたが、大川では地元民も採石の仕事を担っていたことが古文書からわかってきました。

当時の一般的な主食は米以外にもヒエやアワでしたが、石工たちは当時高級だったお米が食べられ大川村は潤っていたであろうことがわかってきました。

築城石についてですが、大川の区内にある東伊豆町教育委員会指定文化財「ぼなき石」や、他の角石などにも刻印が残っています。

刻印には持ち主とされる大名の家紋が刻印されていて、たくさん取ることで当時は名声を得ることができたようです。

飯田さん
飯田さん

また、江戸時代末期の大川村の絵図も12種類ほど出てきました。
飯田さん
飯田さん

これらは江戸末期に異国船の襲来を恐れた幕府からのお達しで村人が書いたとされる絵図です。

どれも港や寺や昔の道などが記されていて、中には相給地(あいきゅうち)が入り組んでいたことがよくわかる絵図もあります。

沼津藩(水野出羽)と幕府の持っている土地が混在しているのがひと目で分かりますが、川などわかりやすい目印で領地を分割しなかったのは、土地の傾斜などもあって畑の面積や収穫量にばらつきがあるためバランスを見ながら決めていたのではないかという解釈が他の資料と照合すると見えてきます。

またこの時代から、木村や稲葉といった大川に多くいる名字が存在していたことがよくわかりますね。

ほかには大川小学校の最初の出席簿が出てきました。

明治6年(1873年)に開校した当初には、生徒数が24人だったということがわかり、学年は八級から繰り上がり制で年二回の試験を受けながら進級していくという仕組みでした。

イカが大量に水揚げされて忙しいから、学校を休んでいたという記述もなかにはありましたよ(笑)

飯田さん
飯田さん

明治4年の大川村法・民法・商法には元日に「軒別年頭礼」という新年の行事があったり、1月11日には野焼きの人足を手配するなど取り決めごとが記されています。

大川にもかつては稲取の細野高原のように茅場があり、野焼きをしたり、茅刈りをして、暮らしが営まれていました。

屋根の茅を葺き替えられる家が年間4軒程度だったらしく、村の総会で事前にどこの家の屋根を葺き替えるのか、など取り決めていたようです。

昔は炭・薪・しきみ(仏壇に供える植物)を出荷するなど一次産業の拠点として、山が付いている村は裕福でした。

それら古文書をさらに静岡県の専門機関が調査し、調査報告書も作成してくれました。

歴史が見えてくると、私達の暮らしている大川の色々なことがわかってくるので面白いですよ!

飯田さん
飯田さん
荒武
荒武

かつての大川の人々がどのような暮らしを営んできたのかが、古文書から見えてきたんですね!

古文書の文字を読み解くのは大変だと思うのですが、どのように読み解かれるのでしょうか?

記載されている文字、一文字一文字を『くずし字用例辞典』で調べながら読み解いていきます。

一つの字が読めないと半日かかっても読めないときもあります。

飯田さん
飯田さん

荒武
荒武

飯田さんの古文書解読に対しての努力が滲んでいる辞典ですね。

時間をかけてコツコツと古文書の内容を読み解いていくのは根気と地域への思いが必要であることが伺えますね。

飯田さんは現在どのような古文書研究をされているのですか?

先程お話した、大川の古文書をつなぎ合わせていけば大川の歴史がわかるかなと思い、自作で「大川村の歴史」を作成しています。

宇宙の誕生から今の町に至るまでをまとめている資料です。

大川には歴史を記した資料は江戸初期から明治22年まで残っていて、そこから城東村に合併したので記録が途絶えてしまっています。

ちなみに初代城東村の村長は大川の出身でした。

公民館にあった古文書は、複数の箱に保管されていましたが、文化財保護の観点から順番を変えないように一人で整理しました。

全3213点の資料を調べ、分類する作業を行い、保管にあたっては、資料の劣化速度が抑えられる中性紙の封筒を自費で購入して保存してきました。

作成された年代を整理した情報はパソコンのデータにして保管してあります。

飯田さん
飯田さん
荒武
荒武

飯田さんの情熱が感じられる途方も無い作業だったことと思います…

そんなに膨大な資料の整理を本当に飯田さんひとりでやられたのですか!?

はい、一人でやっていますよ。

しかし解読には東伊豆町古文書同好会に協力してもらいました。

東伊豆町には古文書同好会という団体がありますが、年配者ばかりで若い人たちにも加入してもらいたいです。

後発の育成もしていかないと歴史が途絶えてしまうなと考えています。

大川以外の町に残っている古文書も順次研究を進めており、白田の硫黄鉱に反対する文書や年貢の記録書や白田/稲取/見高地区の山の境界線についての主張についても記された古文書を読み解いてきました。

これらすべてを長期的に保存できるように取り組んでいく必要があります。

飯田さん
飯田さん
荒武
荒武

これからの世代にこれまでの歴史をつないでいくこと。

飯田さんが取り組まれている古文書研究は今の私達にとっても宝物ですし、未来の東伊豆町で暮らす人達にとってはかけがえのない財産になるものだと思います!

100年後には今の私達の暮らしも100年前の暮らしになっていくということを考えると、今を残していくことも大切なんだろうなと、飯田さんの歴史と向き合う姿勢から考えさせられました。

本日はインタビューにお答えいただき、たくさんの歴史のお話を聞かせていただき誠にありがとうございました!!

取材先紹介・写真掲載協力:鳥澤善久さん(北川)